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〒595-0051 大阪府泉大津市東港町8番2号

毛布百余年の軌跡

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毛布の系譜をたどれば、真田幸村や後藤又兵衛に出会える。

真田ひもで知られる真田織の創始者は、大坂夏の陣の悲劇の英雄、真田幸村ですが、それを泉州へ伝えたのが、後藤又兵衛といわれています。しかし、どうもこれは伝承に過ぎず、正しくは、和泉又兵衛、あるいは、浜田又兵衛とのこと。同じ「又兵衛」が同時代の英雄と重なったのでしょうか。

ところで毛布と真田織の関係ですが、泉州に古くから伝わる木綿織の技術にこの真田織の技術がドッキングして、明治の毛布技術の伏流水となったのは確かです。一枚の毛布には、はるか戦国の英雄の技が流れているというのも、楽しいことではありませんか。

明治

牛毛服地から牛毛布へ。六文銭マークの「真盛社」誕生。

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関西で最初の私鉄がなんばから大和川に開通した明治18年、泉州でも日本で最初の毛布が織り上げられました。

当時、赤ゲットと呼ばれた輸入毛布は、真紅で、肌触りも柔らかく、そのあたたかさは庶民の憧れのまと。しかし、その値段は高根の花でした。これに追いつき追い越せと、パイオニア精神に燃えたのが真田織の技術を伝える真盛社。幸村の志をうけて、その社章は六文銭を配していました。

最初は大阪から不要の牛毛をもらいうけて服地を織りましたが、ゴワゴワした着ごこちと、なんともたまらない臭いによって、売れ行きはサッパリ。みごと失敗に終わります。「服地がダメなら、寝具に」という、ここでも幸村流精神を発揮し、牛毛布第一号が誕生します。しかし、その目標であった赤ゲットには及びもつかないもので、その縞模様からダンダラ毛布と呼ばれました。

牛毛布との悪戦苦闘から生まれた、新しい工夫、新しい技術。

赤ゲットに及びもつかないダンダラ毛布を、何とか柔らかな肌ざわりにしようと、チャレンジしたのが、われらの先達です。

まず、牛毛に石灰を混ぜて臼でつき、それを川で晒して、石灰分を流して、乾燥させるまでが、前工程。次に始まるのが、やっと紡績工程で、この牛毛を「ペンペン」という弓のような道具で弾いて、柔らかな繊維だけを選びだし、糸にひきます。こうしてできたのが、手紡糸で「つぎのき」「つぎぬき」と呼ばれました。

毛布の良し悪しは、起毛につきるといわれますが、泉州毛布の名声を不動のものにしたのが、この起毛の技術です。牛毛布が織り始められた頃は、起毛も幼稚で、チーゼルという薊(アザミ)の実を乾燥させたものを使って、手がきで行いました。手にするだけでトゲトゲしいチーゼルと格闘しながら、まんべんなく起毛する技術が生まれ、それが、回転式人力起毛機を生み、次いで動力式起毛機へと発展していったのです。このように、前工程から、仕上げの起毛工程まで、さまざまな工夫を生みだしたのも、牛毛という、一筋縄ではいかない素材をあきらめず、前進をつづけたからではないでしょうか。

日清・日露の戦争が、綿毛布の輸出ブームを呼ぶ。

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どんなに新工夫を加えても、牛毛布は牛毛布。赤ゲットのようにはいきません。せいぜい、人力車の膝かけ、軍御用達の鞍下毛布などに使われるだけでした。

技術だけが先行し、商品価値がついてこないというのは、つらいことです。牛毛を綿に変えようという発想がひらめいたのは、なんとかこの技術を生かそうとしたからでしょうか。

牛毛布に少し遅れて開発された綿毛布は、おりからの日清戦争の影響を受けて、中国大陸を市場に選びました。価格が安い綿という素材が嗜好にあっている、という理由で市場は拡大の一途をたどります。日露戦争が始まり、終わると、また市場は一回り大きくなっていました。

そして、第一次世界大戦がはじまり、終わると、これまで世界の毛布市場を席巻していた欧州の毛布産業が疲弊し、これに変わって泉州の毛布が敷き詰められていました。このように、泉州毛布は、国内よりも、まず、世界を相手にその名声が認められたのでした。

赤ゲット以来の伝統毛布は寝具というよりも衣料。

赤ゲット、つまり、赤いブランケットという言葉が、昭和の初めごろまで使われていました。広辞苑にも「都会見物の田舎者。おのぼりさん。不慣れな洋行者」と載っています。確かなことは分かりませんが、かつて、地方から都会へでかけたお上りさんは、目印のために派手な色の毛布を羽織り、このため、赤ゲットなる言葉が生まれたのだろうといわれています。

このように、明治の頃から、少なくとも大正までは、毛布は、ブランケットと洒落た名で呼ばれていたことが分かります。

寒冷地で今も残る角巻き、あるいは、川端康成の名作「雪国」の駒子も、そういえば、赤い毛布をかぶっていたようです。

現在、日本の毛布は、世界でも珍しい現象として、花柄に人気がありますが、これも毛布が寝具としてよりも、衣料として使われた歴史の余韻かもしれません。

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大正

綿から羊毛へ。そして、分業体制。時代も味方した泉州毛布。

綿毛布のピークは、大正に入るとやってきます。見本もなく、柄見本を郵送すると、千枚単位で注文が電報で舞い込むという異常な時代です。ちなみに、大正六年の綿毛布は、前年の10倍、明治後半期の400倍の155万枚を超える驚異的な生産量をマークします。

しかし、この異常な輸出ブームもピークを過ぎると落ち着きを見せはじめ、それと入れ替わるように、国内需要が息づきはじめます。欧州の毛布産業の疲弊は、当然わが国での輸入毛布、つまり、あこがれの赤ゲットが品薄になることを意味します。泉州産業は、このころ、綿毛布から羊毛毛布の生産へ移行し始めるのです。赤ゲットに始まった日本の毛布づくりは、牛毛布を経て、綿毛布を開発し、ついに、羊毛毛布へと、たどりついたのでした。

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泉州毛布の全国シェアが、75%を超えたこの頃、生産方式にも、大きな転換が始まっていました。毛布の複雑な工程をひとつひとつ分けて行う「社会的分業体制」です。紡績は紡績、織りは織り、起毛は起毛のそれぞれの専門業者が分担することで、能率化が進み、競争力をつけていったのです。

時代は、第一号の牛毛布を生産して三十五年を経た大正七年、大阪では、米騒動がきっかけとなって、職業安定所や市営住宅などの社会事業が始まっていました。

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昭和

栄光の座から、一挙に冬の時代の耐乏生活へ。

全国でゆるぎないシェアを占め、分業体制も着々と進めた泉州毛布は、昭和に入っても悠然と冬の時代を乗り越えていきました。

昭和二年の世界大恐慌、六年の満州事変、そして、九年には、瞬間最大風速六十メートルの室戸台風が関西を襲い未曽有の被害をもたらしましたが、泉州の毛布産業は、輸出市場と国内需要に支えられて、業績を伸ばしつづけます。そのピークが昭和十一年。ちなみに、当時の産業規模は「織布工場二百五十余、紡毛工場十余、整理工場五、年額二千万円に及ぶ」と記されています。これは、同年、十九年の歳月と二千六百万円を掛けて現在の国会議事堂が完成したことと合わせて考えると、二千万円の年額の大きさが想像できるでしょう。

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しかし、昭和十二年、盧溝橋事件で始まった、日中戦争は、指物、好景気を誇った泉州毛布をも大きな混乱の渦に巻き込んでいきました。戦禍は、英領インドやアメリカに頼っていた綿花の輸入の制限となって現れました。

綿毛布の代替品としてスフの混用が強制され、戦乱の長期化に伴って徐々に統制経済が強化されはじめます。昭和十三年には、綿花と羊毛の輸入量は、平成の半分以下になり、綿製品の製造・販売が規制されていきます。

国民生活も光のない時代に入り、十五年には、砂糖・マッチの切符制、家庭用燃料の登録制、乳製品の割当て配給、十六年に入ると米穀・酒・塩・みその通帳制が行われます。十七年には、衣料が全面的切符制度となります。衣料切符とは、一年に百点が与えられ、切符がなければ、いくらお金を持っていても物が買えない統制経済で、ちなみに、組毛布(二枚つづき)は四十点、毛布を買ってしまうと、もうその年は下着も靴下も我慢しなければならない時代でした。そして、その衣料の主原料はスフ。泉州もスフ毛布一色に塗り替えられていったのです。

暗い時代にも、パイオニア精神は健在。

綿がスフに替わり、意気消沈する泉州毛布産業でしたが、開発や研究意欲まで息をひそめいていたのではありません。むしろ、暗い時代に対して、反抗するように、旺盛なパイオニア・スピリットをたぎらせていたのです。

そのひとつは、プリント技術。ジャカードでは表現できない模様も、捺染なら自由自在に表現でき、毛布の需要を拡げられる、と考えたこと。また、無地の生地をシーズンオフに織りだめしておき、シーズンに入るや、売れ行きを見た上で柄をつけようという、まさに画期的な技術開発でした。

厚手の毛布にプリントするため、思うように進まず、浸透剤や防染剤に苦心を重ねて、昭和十三年にやっと完成します。しかし、いざ、製品化という段になって、現実的に不可能という結果がでてしまいます。それは、産業構造が完全な分業体制であるため、シーズン期には、加工工場に集中する毛布と持ち込む無柄の毛布が一緒になって収拾のつかない混乱が起こると予測されたからです。せっかくのプリント技術も、こういう訳で幻のプリントとなりますが、とっこい、このまま埋もれさせる泉州ではありません。戦後いちはやく、泉州毛布が活気づくのは、この技術が底流になっていたからなのです。

また、現在では、当たり前になっている防虫加工が開発され、本格化するのも、昭和十年頃です。しかし、防虫加工は、日中戦争の拡大とともに、毛布の民間需要がなくなり、中断されてしまいます。泉州毛布産業が戦争の嵐に風前の灯火にさらされていた、ちょうどこの頃、逆に軍用毛布によって一息ついたのも事実です。軍用毛布の利益をそのままキープすることもできず、飛行機二機を献納したといいます。この飛行機は、「日本毛布号」「西日本毛布号」と命名され、活躍したとつたえられています。

疎開や復員兵によって広まった毛布の便利さ。

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すべてを焼きつくし、破壊しつくして、突然に戦争は終わります。泉州の毛布産業も、六十年の伝統と栄光が共に灰燼に帰した昭和二十年、もう、だれもが再起不能と思いました。

しかし、幸運なことに、GHQからタイ向けに輸出毛布を受注したのをきっかけに、荒廃した設備は急速に整備され、離散していた人材は、再び泉州に戻ってきたのです。そして、昭和二十四年、これまで統制品になっていた原毛などが、解除されると、おりしも衣料品不足の国民生活に、砂が水をすいこむように、毛布が吸収されていったのです。ガチャンと織れば、万単位の稼ぎがあがる、いわゆる「ガチャ万」景気がこれです。それに追い打ちをかけるように二十五年の糸ヘンブームが到来。増産に増産をつづけても、その需要に追いつかないという活気に見舞われます。三十年には、戦前のピークであった最高生産高の一千万枚の水準に達し、電化製品か毛布かといわれるほどの成長製品に押し上げられます。

毛布が異常ともいえるブームを呼んだ理由は、ひとつには、軍隊や疎開での経験や進駐軍の放出毛布で、毛布の使いやすさ、温かさが広く知られたことでしょう。また、戦後の洋風化が毛布の需要を生んだこともあるでしょう。しかし、このような外因だけでなく、泉州の努力も大きな原因のひとつです。かつてのスフ毛布の技術を発展させて開発したスパン・レーヨン毛布が非常に安く、かつ純毛に近い肌ざわりであったこと、そして、プリント技術によって、新しい生活感覚にマッチした、カラフルな毛布が提供できたことも、大いに、評価しなくてはなりません。

毛布の投げ売り合戦。好景気が招いた戦後最大のピンチ

好事魔多し、とはよく言ったもので、順風満帆に見えた泉州毛布産業界にも、好景気ゆえの魔がひそんでいました。

増産につぐ増産は、織機を増やし工場数を増やしていきましたが、これらの増えた工場はすべて、といっていいほど、家族の労働力に頼る、織機二、三台の零細下請工場。しかも、使われている織機は登録されておらず、生産計画の立てようもなく、混乱に拍車を招く結果を生んでしまします。

昭和三十六年五百台の無登録織機が三十七年には一千台、三十八年には二千台に増えていったと見られています。三十八年の登録織機が三千台ですから、三台に一台は無登録織機というわけです。一台の織機の年間毛布生産量が約四千五百枚で、総生産数が二千五百万枚。当時の毛布総需要が二千万枚ですから、数字の上からでも深刻な過剰生産時代をみることができます。

それが表面化したのが三十八年の秋冬と三十九年にかけてです。

毛布は半値をきり、乱売合戦がくり広げられ、一方、工賃ダンピングは零細下請工場を直撃し、戦後最大の苦境を迎えるのです。

試行錯誤の中から生まれたアイデア毛布時代

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生産過剰が原因で始まった業界の混乱を収拾するために、泉州毛布工業組合は無登録織機を認定し、登録織機と同じ労働条件、工賃が確保できるように、仲間としての権利を与えました。

これまで、業者間の行き来も少なく、協調に欠けるといわれた泉州の毛布業界は、この無登録織機の認定という事件によって、初めて業者協調、協力の意味を知ります。また、長時間労働にのみ頼っていた零細工場も、品質向上による適正工賃の重要性を認識したのです。

しかし、操業短縮や生産調整だけでは、この時代を乗り越えることはできません。必要は発明の母、といいます。この時代に、商品の多様化が図られ、新製品が次々と生まれました。「電気毛布」「子供毛布」「コタツ毛布」が市場に現れたのも三十年代の後半です。

毛布は寝具という概念を超えた「毛布丹前」「夜着」「茶羽織」「敷物」なども開発され、アイデアラッシュの様相を見せました。こうした積極的な姿勢の中から、初めてテレビコマーシャルも打たれました。昭和三十八年十一月の出来事です。

あまり変化のなかった毛布の生産工程に、大きな変革が見られたのが、三十六年のタフティング・マシンの導入です。また、つづいて、キルティングやラッセルなどの新鋭設備が導入されたのもこの頃です。起毛技術も改良されています。毛布地を自動的に逆転させる方式や連結式の機械が生まれ、省力化に役立ちましたし、起毛加工技術では、毛布の風合いを向上させて、需要の拡大につながっていきました。

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現在

毛布高付加価値時代迎え、新百年への決意も新た。

昭和四十八年、マイヤー毛布が開発され、これまでの織毛布・タフト毛布に代わる新しい毛布ジャンルを築きました。

また、加工面でも、風合いを生みだす表面加工技術、プリント技術が日進月歩の勢いで発達し、毛布の高付加価値時代の到来を告げます。これを象徴するのが、四十六年の「紫毛布ブーム」です。六十年に一回やってくる辛亥の年に紫色の寝具を使えば、長寿が保てる、という言い伝えが、異様なブームを呼び、紫色の毛布が売れに売れました。泉大津の空、川、家屋までが紫色に染まったというほどで、すべての毛布が紫に染め上げられ、四十六年の暮れには、泉大津から一切の毛布が消えていったといいます。

しかし、毛布は、すでに耐久消費財としていきわたり、買い替え需要に転じたことから、昭和四十五・六年頃をピークに、減少傾向を辿りました。さらに追い討ちをかけるように、国際化の進展により、輸入が増大し、業界は極めて厳しい局面に立たされています。わが国で毛布が生まれて百二十余年。この間、毛布をくらしの中に定着させるための悪戦苦闘の、刻苦勉励の、試行錯誤の連続でありました。くらしの中にいきわたり、なじんだ毛布を、いま、改めて手にするとき、毛布とともに辛酸をなめた、私達の先達の感動を思わずにはいられません。

そして今、先覚者が築いた、毛布づくりの灯を絶やすことのないよう、未来に向かって、業界の飛躍、発展、繁栄を認めて、鋭意、努力を続けています。

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